円谷ウルトラファンサイト・円谷英二の死

円谷英二の死。伝承される魂のキーワード


円谷の夢、伝承される魂のキーワード
昭和45年1月25日午後10時 円谷英二逝去
途切れた「ニッポン・ヒコーキ野郎」
特撮は死んでしまった。
円谷英二の夢。

昭和44年11月、

英二は来年(昭和45年)に迫った万国博覧会の三菱未来館で行われる映像展示の撮影のため鳴門へロケに行った。 この時体調を壊し、無理をして撮影を強行したためよけい悪化し、帰るとすぐに入院し、以後は別荘で静養するようになった。

昭和45年は、英二にとって静養先で新年を迎える事になった。 この頃の英二は、「ニッポン・ヒコーキ野郎」という映画を作ろうとして、自らその脚本を書いていた。

英二は円谷プロ独立に際し、「これからは映画会社の企画に関係なく、自由に作品を作りたい。」という希望を持っていた。 東宝時代のように海外の怪獣映画の注文にばかり応えているのではなく、特撮をもっといろいろな作品に生かし、幅広く多くの作品を製作したいと考えていたのである。 折からの怪獣ブームにより、円谷プロは「怪獣」にあまりにも拘束された作品製作を余儀なくされてしまったが、実は英二自身、もっといろいろなテーマに挑戦したかったのである。

英二の企画、「ニッポンヒコーキ野郎」は、英二が若い時分に日本飛行機学校で経験した様々なエピソードを散りばめ、日本飛行界黎明期の苦労を描いた企画であった。 飛行機がやっと飛び始めた頃、先人には人知れぬ苦労や喜びがあった。 本来英二の作りたかったのはこういった作品であり、英二もやっと自分の時間が出来て、この様な作品にチャレンジすることが出来るのであった。

しかし、この企画は中途でとぎれた。

1月25日、静養期間も終わり、英二は体調もほぼ取り戻して明日には東京へ帰るという日だった、午後10時、 突然発作をうったえた英二はそのまま床に伏し、帰らぬ人となった。

享年68才であった。

英二の死は突然のことであり、周囲を慌てさせた。 葬儀にはかつての弟子たちや映画関係者が大勢訪れ、その死を悔やんだ。 中でも昭和29年から「ゴジラ」の中に入り、ゴジラ役者として活躍した中島春雄は、「特撮は死んじまった。」とその死を悔やんだ。

英二の死は突然やって来て、その映画界での活躍の割には、あまり語られることがなかった様にも思える。 だが、人々に夢を与えた人物はやはり夢の中にいるのであって、英二が亡くなっても作品はずっと見ることができ、語り継がれるのである。 英二の夢は、実はこれから広がるのであった。    

△このページトップへ