円谷ウルトラファンサイト・はじめての敗北下がり続ける視聴率

初めての敗北下がり続ける視聴率

高視聴率で終わった「ウルトラマン」は、若い円谷プロのスタッフを勇気づけた。 番組終了後、東映製作の「キャプテン・ウルトラ」が始まったが、円谷プロはその出来映えを見て「我が敵にあらず」の感を深めていた。

上り調子のスタッフが次に取り組んだのは、今度は広く宇宙を舞台にしたドラマであった。 「ウルトラマン」で好評だった宇宙人のドラマを拡充し、宇宙人を舞台にした新番組の構想は、最終的に「ウルトラセブン」に決まった。

しかし、すべてがうまくいくものではなかった。 円谷プロが自信を持って放った「ウルトラセブン」だったが、第1話の視聴率が30%を越えたものの、そこからどんどん下降していき、10%代にまで落ち込んだ。円谷プロが初めて味わう敗北だった。

またこの時期、円谷プロはフジテレビにおいて1時間ものの新番組、「マイティ・ジャック」を製作した。

ウルトラセブンの不調で失望していたスタッフは、この本格的なSF番組に取り組んだが、これは決定的な低視聴率となり、わずか1クールで打ち切りになった。 この様な視聴率低迷に、円谷プロの経営不振が追い打ちをかけた。 テレビ局から出る番組製作費は特撮番組といえど500万円程度であったが、その金額ではまかなえず、作れば作るほど赤字がかさむという状態になっていた。

特撮の神様と呼ばれた英二も、会社経営に関しては全くの素人だった。

東宝時代には映画製作の予算を決めるプロデューサーが存在したが、円谷プロは英二がそれをしなければならなかった。 妥協を許さぬ英二の製作姿勢は、会社経営の場では赤字がかさみ、むしろマイナス材料となっていった。

また、映画が好きな人なら誰でも受け入れる様な英二の甘い体質も足かせとなった。 円谷プロは過剰な人件費が膨れ上がり、それらに与えるだけの仕事もなかった。

ここでは次男の皐(のぼる)が中心となり、大幅なリストラが敢行された。 これまで活躍したスタッフは格下げとなり、多くの人々が円谷プロを去った。

昔の仲間から「息子を頼むよ。」と言われて入社させた人物らと別れる英二の心境はいかばかりだったろうか。

円谷プロはその後も番組の製作を続けた。 また、この時にリストラされたスタッフも他社において同様な仕事を行った。

それは、時には異なるテレビ局の同一時間帯にそれぞれが放送され、円谷の遺伝子が競争し合う様な事もあった。 後進は英二の厳しい指導により、たとえ円谷プロを離れても、映画の世界で暮らしていけるだけの技術を身につけていたのである。

また、「ウルトラマン」ほどの評価を得られなかった「ウルトラセブン」も、後に高い評価を得て、「ウルトラマン」とともに何度も何度も再放送され、ずっと円谷プロの屋台骨を支え続けた。「いいものを作っておいて良かった。」当時製作に関わったスタッフは後にこの様に述懐している。

円谷プロの経営が悪化していくときも、英二はいつも厳しいスケジュールに追われていた。 古巣の東宝では、相変わらず多くの怪獣映画を製作していた上、昭和40年代にはもともと得意としていた戦争映画の製作も多く行われた。分刻みのようなスケジュールの中でも、英二は決して作品の質を落とすことはなかった。

戦争映画の大家として知られる松林宋恵は、撮影が終わって英二らと編集作業をしていた時、夜も遅いので先に帰って翌朝出社したとき、英二がまだ編集を行っているのにびっくりしたという。

「英二さん!あなたは自分の健康を考えたことがあるのか!」 10歳年上の英二に対してこの様に怒る松林監督もそれなりの覚悟を持って注意したのだが、心配したとおり、晩年の英二は長年の不摂生がたたり、持病の糖尿病を悪化させていた。 そのためいつ起きるかわからない心臓発作に備え、いつもニトログリセリンを持ち歩いていたという。

夢に向かって走る英二

自分の夢に向かって突っ走る性格の持ち主は、周囲のことを考えずに理想だけを実現しようとする傾向があり、英二もまたそのような人物であった。だが、すばらしい映像を製作する能力があれば、会社を運営できるわけではなかった。

しかし、映像に打ち込む厳しい姿勢がなければ、映画人として成立しないのもまた事実である。 ここで育っていった人々は、「円谷プロは監督を作る学校のようなものだった。」と言っている。

若い人々を鍛え上げ、後進を立派に育て、後の映画界に送り出した英二の功績は大きかったのである。  

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