特撮の神様 円谷英二 経歴書

 ふ り が な   つぶらや えいじ(えいいち)

 氏   名
  円谷 英二(本名 英一)
 生年月日
  明治34年7月10日生(注 7月7日ではありません。)
 ふ り が な   ふくしまけんすかがわちょう

 出 生 地   〒(962-8601 )
福島県須賀川町の中央部で麹業を営む円谷家に生れる。
円谷英二
学歴・職歴
1906 04 1906年、須賀川町立尋常小学校に入学
当時の通信簿は10段階評定だが、そのほとんどを9か10で占めていた。
大正3年 大正三年に須賀川尋常小学校高等科を卒業
十月に上京し、機械製作所に就職して工員となるが飛行機への夢が捨てきれず1ヶ月で退職
家族を説得し東京羽田にあった日本飛行機学校へ入学
飛行機学校の収入源は、縁日等で飛行機を飛ばしてみせることだったが飛行機が飛ばず袋叩きにあうこともあった。
飛行機に情熱を傾けていたが一人しかいない教官が墜落事故で死亡、飛行機学校閉鎖
東京工科学校(現東京電機大学)入学
-- --  −職歴−
おもちゃメーカーに就職キックボードの原型を開発しヒットとなる。
花見の喧嘩の仲裁をきっかけに出会った枝正義郎の勧めで天然色活動写真株式会社に入社
天活が国際活映(国活)という別会社に吸収
一番若くて東北出身の英二はいじめの対象にされ東北なまりを笑い者扱いされる。
国活で奮起、当時では珍しい飛行機からの空中撮影の依頼に志願し成功。一目置かれるようになる。
開戦
大正10年 1921年の暮れ、英二は兵役 会津若松歩兵連隊に配属
大正12年 1923年夏、除隊となった英二は郷里の須賀川に帰る。
米を買ってくると言い残し家出同然に再上京
「映画で成功するまでは死んでも故郷に帰りません。」と決意を語る。
のちに1922当時に起きた関東大震災の衝撃を昭和39年「士魂魔道・大竜巻」でブロット公開
小笠原名峰が運営する「小笠原プロダクション」映画人生を再開。
小笠原プロ活動を停止。
杉山公平の勧めで京都の衣笠映画連盟に加入
のちに松竹所属となる。
松竹長谷川一夫主演「稚児の剣法」で成功
ロケ風景を見学に来ていた荒木マサノと出会う。
木製のクレーンから転落しケガをした英二を見舞い親密になり結婚。
しかし英二は、式の翌日にロケ撮影に出かけ花嫁は泣きながら一人祝い餅を食べたというエピソードが語られている。
英二らの協力により松竹トーキー技術を開発
松竹から日活にヘッドハンティングされる。しかし日活を退社、
時代劇映画と離別
マサチューセッツ工科大学出の大沢善夫率いるJOスタジオに入社夢を広がらせる。
昭和12 昭和12年、JOはPCLと合併、東宝となり英二は東宝東京撮影所勤務となる。
東宝で排他される英二に東宝の重役である森岩雄の勧めで特殊技術の道へと進む
開戦記念日作品(12月8日)東宝「ハワイ・マレー沖海戦」公開
実質英二の国内最高のヒット作品だった。
しかし英二はこの作品が結果として多くの若者を戦場に連れ去っとしこの作品について多くを語ることはなかった。
敗戦
英二の敗戦のショックは大きかった、これからどんな時代が来るかわからない・・・。
それまで撮影したフィルムをすべて焼却
昭和22年 昭和22年 戦後各映画会社に労働組合が結成されストライキが続く中
映画の作りたい英二は、バリケードを乗り越えて侵入スト破りと職場を追い出される。
監督や俳優で「十人の旗の会」を結成、新たに新東宝の名で映画を製作するようになり、
スト自体も進駐軍の介入により鎮圧、終結された。
進駐軍により英二は公職追放指定の対象とされる。
英二は自宅に非公式ながら「円谷特殊技術研究所」を設立
進駐軍にばれないように特殊撮影を続けた。弟子も集まり、英二は映画の仕事に復帰するようになった。
昭和27年 昭和27年 公職追放指定の解除。東宝復帰
東宝他の作品の穴埋めとして「ゴジラ」企画
二度とチャンスは来ないも知れない。英二は奮い立つ。
ゴジラは、重さが100キロもあり俳優が入ると一歩も動けず転倒した。
試行錯誤の撮影が続いたため、スタッフは連日徹夜の繰り返しとなり、撮影は午前五時にやっと終了し、
「ゴジラは5時だ。」とからかわれる有様だった。
昭和29年 11 昭和29年11月3日、日本初の特撮怪獣映画ゴジラ公開大ヒット。
「ゴジラ」みたさの観客は、映画館の前から延々渋谷駅まで並んでいた。これほどの長い行列を見たことはなかった。
ゴジラ大ヒットにより、英二日本映画技術賞を受賞。英二はついに認められたのである。
昭和30年 「ゴジラの逆襲」により日本ではじめて特技監督という地位を手に入れる。
長男、一(はじめ)の息子、昌弘 初孫の誕生をことのほか喜ぶ
英二は特撮をファンタジーとしてとらえ。
「子供が見てるんだ。残酷な場面は見せるな。」
「子供の夢を壊すような事はするな。」英二は弟子たちに語り続けた。
昭和38 4 昭和38年4月12日、円谷プロが旗揚げし、英二は自ら社長となった。

続 柄 名 前 家 族
マサノ
長男 一 はじめ (昭和48年2月9日脳溢血没)→長男 円谷プロダクション 円谷 昌弘
次男 皐 のぼる (平成7年6月11日胃がん没)
三男 粲 あきら 円谷映像社長 「ヒーローものを作ろうとすると、だんだんウルトラマンに近づいていってしまう。」 いずれは円谷映像でもヒーローを描きたい。
エコエコアザラク等のヒット作を生み出す。

性格、趣味など

趣味 ギター、三味線、大正琴

特技 給料日に給料を帰宅前に使い切ること、その防衛作として妻に会社前で待ち伏せされていた。
「新し物好き」電化製品などで新しいものが出ると必ず買っていた。
裕福というわけではなかったときもあったが、新しいものが出ると買っていた。(涙)
こどもを愛し子供と大人の境界線がなく、自分もその中の一員であるという位置づけをし
生涯こどもの心を忘れなかった。
愛弟子の苦労に自社の作品を放っておいて、他社の作品に肩入するようなところがあった。

原作者/企画・編集/画
原作 鈴木和幸

著「特撮の神様といわれた男」
企画・編集 真の勇者レイゴ
画  坂上ナオト


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真の勇者